健二さんは45歳の営業本部長でした。ルイ・ヴィトンのダミエ・グラフィットのビジネスブリーフケースを持って来店されたとき、開口一番にこう言いました。「このバッグ、色々あったんですよ」。
それは、10年間の言葉でした。
香港出張でタクシーのドアに挟んだ左コーナーの深い引っかき傷。上海の会議室で椅子の脚に当たり続けた底面の摩耗。深夜3時まで資料を作り続けた日、社内のソファの上に置きっぱなしにしたせいで微妙に形が変わったように見えるメインポケットの側面。会社のIPOが決まった朝、緊張の汗を握りしめた取っ手のバチェッタ革の変色。そして、あの飛行機の中で昇進の電話を受けたとき、頭上の荷物棚に入れていたバッグ——。
そのバッグが今、私の手の中にあります。
傷の地図——10年分のビジネスの記録
バッグを細部まで確認していくと、それぞれの傷がどこから来たか、想像できるような気がしました。左コーナーの深いキズは、タクシーのドアの金属部分が当たった形です。一直線ではなく、斜めにえぐれている。真鍮製のジッパープルは全体がくすみ、本来の黄金色が失われていました。内側のポケットの縫い目は、激しい出し入れで糸が緩み始めていました。取っ手のヌメ革は、汗と皮脂によって色が不均一に変化し、握りやすい部分だけが濃く染まっていました。ロック機構はまだ動くものの、サビと摩耗で開け閉めが重くなっていました。
私がメモを取り終わると、健二さんは静かにこう言いました。
「傷は全部消さなくていい。でも、ちゃんとした姿に戻してほしい。」
その言葉は、この仕事の本質を言い当てていると思いました。
修復の方針——歴史を尊重しながら、品格を取り戻す
私たちは健二さんの意向に従い、「履歴を消さない修復」を方針に定めました。コーナーの深いキズは完全な消去を目指すのではなく、エッジの破断を補修し色を馴染ませるに留めます。底面の摩耗も、革の再生は行いますが、10年使用した自然な雰囲気は残す。
一方で、機能的な部分は完全に修復します。内側のポケットの縫い目を解いてほつれを取り除き、元の糸の太さ・色に合わせた糸で手縫いし直しました。ジッパーのメカニズムを分解清掃し、真鍮専用のポリッシュで磨いた後、動きを軽くする潤滑処理を施しました。ロック機構のサビを除去し、可動部を調整。取っ手のバチェッタ革は保護オイルを丁寧に揉み込み、不均一な色を馴染ませながら革本来の柔軟性を回復させました。
仕上がったバッグは、新品ではありませんでした。でも、そうあるべきではないのです。10年の仕事を経た人間と同じように——傷はあるけれど、品格がある。
受け取った健二さんは、しばらく黙ってバッグを見つめていました。それから、「これで行けます」と言って、まっすぐ出口へ向かいました。その背中を見ながら、私はこの仕事を選んで良かったと思いました。